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ブランカ・デ・ボルボン(Blanca de Borbón, 1339年 - 1361年)は、カスティーリャ王ペドロ1世の、教会法に照らして正当とされた最初の王妃。フランス語名はブランシュ・ド・ブルボン(Blanche de Bourbon)。 == 生涯 == フランスのブルボン公ピエール1世と、妃イザベル・ド・ヴァロワ(ヴァロワ家の祖ヴァロワ伯シャルルの娘)の娘として、ヴァンセンヌで生まれた。兄にブルボン公ルイ2世、姉(妹とも)にフランス王妃となったジャンヌ・ド・ブルボンがいる。 16歳で即位したペドロ1世は、度重なる異母兄エンリケ・デ・トラスタマラとの、貴族と都市を巻き込んだ戦いに苦戦し、軍事だけでなく経済の支援も見込めるフランス王国との交渉に当たった。 イングランド王エドワード3世は、カスティーリャ=イングランド関係の修復のために、王子ペドロとイングランド王女イザベラとの結婚を交渉していた。しかし、ペドロの父アルフォンソ11世は、双方が非常に幼いことを理由にこれを拒絶していた(イザベラはフランス貴族でクーシ領主エンゲラン7世・ド・クーシと結婚)。1342年、再度イングランド側はもう一人の王女ジョーンとペドロとの結婚を申し出、2国間の同意に至った。しかし1348年、婚約のためカスティーリャへ向かったジョーンは、バイヨンヌでペストのため病死し、2国間の同盟は白紙となった。 王太后マリア・デ・ポルトゥガルと、宰相フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケは、フランス側との関係強化を望んだ。教皇クレメンス6世はアヴィニョンから(フランス王ジャン2世の黙認の下)、カスティーリャ=フランス同盟関係を政略結婚によって強化することを助言した。異母兄弟たちとの争いが、ペドロ1世に母と宰相の意見を受け入れさせる原因となった。 最初の候補者には、フィリップ6世妃だったブランシュ・デヴルーが挙げられた。彼女は自身が寡婦であることを理由にこの提案を拒否した。 1351年、バリャドリッドの宮廷で、フランス大使が正式な関係樹立に同意した。この時までに妃候補としてブルボン公女であるブランカが選ばれた。 興味深い事実であるが、ブルボン公女を求めたにもかかわらず、駐フランスのカスティーリャ代表団は、既にブランシュ・デヴルーとの結婚交渉をしていると繰り返したため、同じ理由でブランシュ・デヴルーが再度拒否している。この件に対する弁明は黙殺された。 1352年7月2日、カスティーリャ=フランス間の同盟条約が締結され、その5日後にジャン2世が批准した。同年11月4日、ペドロ1世も批准した。 フランス王は、ブランカの持参金として30万フローリン金貨の支払いを誓った。同じ日に、持参金分割払いの最初の支払いがなされた。 *クリスマスまでに25,000フローリン *ブランカがフランス王位継承権を放棄すると25,000フローリン *同意金額の30万フローリンになるまで、毎年のクリスマスに5万フローリン またカスティーリャ側も、未来の王妃に対して借款として、アレバロ、セプルベダ、コカ、マヨルガの所領使用権を与えるとした。もしこの借款が王母マリアのものと釣り合わなければ、双方が均等になるまで他の物で用立てるとした。もしブランカが子のないまま死んだ場合、ペドロ1世は基本財産全てをフランスへ返還するとした。 交渉、基本財産支払いの全てにおいて、ブランカがカスティーリャへ持ち込む嫁入り道具も同様に、ジャン2世が金を出して念入りに行われた。ブルボン公は金銭的な余裕を保った。 ところが、ジャン2世がクリスマスまでの25,000フローリン支払いに手間取り、7ヶ月もの間目的地へ到着するのに遅れてしまった。カスティーリャへの途上、ブランカはアヴィニョンに立ち寄った。彼女は、自分の唯一の庇護者が教皇インノケンティウス6世だと知ることになる。 ブランカ自身はこの結婚を望んでいなかった。しかし、父、実兄、ジャン2世、そして姉ジャンヌが彼女に運命を受け入れるよう強いたのだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブランカ・デ・ボルボーン (1339-1361)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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